蔬菜部

「お裾分け」の原点は変わらない

みんなで作って、みんなで食べよう。 今年は野菜をたくさんつくりたい。

去年も増やしたつもりだったが、要望に十分応じきれなかった。幸いなことに良質な堆肥がたくさんあるし、広い畑もあるし、近くには未耕地もまだある。こんな好条件の中で、野菜作りを活かさない手はない。作る人さえいれば、まだいっぱい作れる。ネオポリス農場も去年あたりから賑やかになってきたが、まだまだ余裕がある。他の仕事を持っている人がいくらかの時間を割いて一人一品目から始めても、シーズンを通したら一人3品目ぐらい作れるだろう。たくさん寄れば大きな時間になる。

ざっくり作って、丁寧に調理して、 おいしく食べよう。

畑ではこんなぶ細工なキャベツで大丈夫なんだろうかと心配するが、愛和館に出ているキャベツはまるで魔法にかけられたみたいにきれいに仕上がって食卓にあがってくる。ここには、粗野な野菜もうまく調理してくれる人がいて、それをおいしく食べてくれる人がいる。スーパーに並ぶような芸術品の野菜でなくていい。見かけは悪くていいんであって、それなら手間暇かけない素人百姓のやり方でやれる。全体作業で植えた玉葱なども、味で言うならプロの農家にもひけは取らないと思う。

そして周りにもお裾分け。 たくさん出来た旨いものは 知人にお裾分けしよう。

自分たちが作ったものを自分たちで食べるのはおいしいが、それを知人にわけてあげて、おいしく食べてもらえたら、これはもう、作り手冥利につきる。もっとおいしいのを作ろう、またわけてあげようという気にもなる。「お裾分け」はしかし、直接の知人だけとも限らない。高野尾の人もいたり、東京の友人もいたり、そういう知人やお隣さんへのお裾分けがどんどん拡がって、いつの間にか、難しく言うと、「供給」と言うことになってきても、はじめの「お裾分け」の原点は変わらないと思う。 「お裾分け」できるぐらい作りたい。

沖永和規