藤岡静広さん、遠藤力さんに聞く

今年は、豊里実顕地が発足して40周年。特に6月は豊里実顕地の誕生月で、22日に起工式、27日は法人としての設立登記の日となっていますので、6月の交流会で、豊里実顕地誕生前後のお話を、藤岡さん・遠藤さんにお聞きしました。
当時藤岡さんは40歳で実顕地造成機関の立場でこの新実顕地の立ち上げにも関わってこられました。遠藤さんは当時30歳。豊里ができてすぐ、参画されました。

 

*豊里の前にも各地に実顕地が出来ていたと思うのですが、その段階であえて新実顕地構想とか適正規模実顕地構想が出て来て、何故豊里実顕地を創ろうとしたのか、その背景や目的を聞かせてください。
藤岡: その当時で実顕地は一応十数か所ありました。当初は、身近のものが寄り合って創った実顕地なので、5~8人くらいの小規模でした。それでも研鑚してやって いたのですが、実顕地の構想する機能というか動きが、やっぱり規模が小さいとなかなか思うようにうまくいかなかったです。全国的にも実顕地が注目されてき たので、適正規模の実顕地をつくろうではないかとなった。適正規模というのでは、人員200~300人、鶏舎50棟、そこまで大きければ実顕地としてやっ ていけるのではないかとなり、そういう実顕地を創ろうとなり呼びかけました。今までの実顕地の人も一緒になって考え、会員の中でも実顕地をやろうという気 運が盛り上がって、全国から人を受け入れられる1箇所モデル的な物を作ろうとなって始めたんです。
*今ある実顕地を大きくしようというのとは違ったのですね。
藤岡:そうです。全然違います。
遠藤:その時分、関東の方で新しき村、奈良では心境農産などの組織が脚光を浴びていた。そういう中で、やはり社会から求められる生活、社会に答えられる面からある程度、規模・人数が話題になったと思います。
*新実顕地を創るにあたって、あちこち候補地を探されたと思いますが、その中で豊里が選ばれた理由は何だったのでしょう。
藤岡:その頃は、丁度東名や名阪が開通した年だった。あちこち声がかかった中で、豊里には、地元の会員山下さんや伊藤さんからの呼びかけがあって見に来たら、このへんもみかん畑で「こりゃあいいなあ」となった。開拓地だったので、買いたしていけるので理想的やなあとなった。
*最初はどの位の土地を手に入れられたのですか。
遠藤:最初の頃は、今の20号南駐車場と豊里会館くらい迄で、まずは鶏舎10棟と生活する場所くらいでとても狭かったです。将来大きく広がっていく要素が必要だという研鑚をした事を覚えています。
*当時はヤマギシがくるということで、地元の人の様子はどうでしたか。
遠藤:ヤマギシ会事件から10年しかたっていなくて、地元の人にはまだ生々しいという印象があった。もう一つは、伊賀に調査に行ったら、ヤマギシは給食代も払えないというんで、その二つの面からかなり歓迎されない背景があったと思います。
一番はヤマギシの人に触れてないということで、うわさだけで拒否反応がでていたような感じがします。
*当時は仕事も生活も厳しかったと聞きますが、実際はどんな感じだったのでしょう。
遠藤:その当時は、一般の生活レベルはかなり豊かな時代だったと思い
ますが、豊里では、ご飯は一応米の飯を食べてはいたが、古古米でなくて古古古米が普通の1/3で買えるのでそれを食べていた状態です。いろいろ工夫をして 生活していましたが。お風呂は普通の家用のお風呂を2つおいて、それでも50人位が夕方から10時くらいまで混まずに全員入った思い出があります。
*藤岡さんは、春日山から通われていたんですか?
藤岡: 毎日、杉本さん達と一緒に通いましたね。豊里には宿舎もないしね。どっちも掘っ立て小屋でね。今の愛和館とか和楽を見るととても想像つかないわね。それで も研鑚会が進んで、生活法が始まって、作業着と普段着を分けるようになったりしてきた。しかしそれまでは凸凹する土間の食堂で、長靴はいて作業着で豚糞つ いたまま入って食事をしていた。とにかくヤマギシズム生活実顕地やから革命が主眼なので、ボロを着てやるのが当たり前だと思ってたなぁ。その当時の観念と しては、飯がまずいとか、風呂がどうやとかは、それが革命の士の生き方やと言う位のことだった。今となっては想像もつかないことだね。
*お金の面では、厳しかった感じですか。
遠藤:特に昭和44年から3~4年間は、厳しいというより、どうやったら今晩を暮らすか、明日を暮らすかという時代がありました。

*今日は大変貴重なお話を聞くことができました。ありがとうございました。
(編集・豊里40周年委員会)

-豊里40周年だより 第4号より-